ぺだんの日記

日々の出来事や思ったことを色々書いていこうと思います

許される?⦅20歳68日目⦆

突然だが、自分語りの多い人についてどう思うだろうか。僕は自分の話が極端に多い人が苦手だ。話し手は楽しそうに話してくれるのだが、その出来事を体験したわけでもない僕がそれを聞いても反応に困ってしまう。

そもそも、自分語りが面白かった試しがあったか。周りにいる普通の人の話なんて、ペンの立つ作家のエッセイじゃないんだから、基本的にはつまらない。長時間もの自分語りを聞かされた日には、発狂した方が精神衛生上良いというものだ。

もちろんそのような目は、自分にも向けられているだろう。そのため、日常生活では自分の話はできるだけ削ぎ落とし、相手の話に乗っかるようにしている。

相手が明確にいるところで自分の話をすることは、僕の中では許されないことと判断される。でも、正直なところ、誰だって(もちろん僕だって)自分の話はしたいものだし、誰かに聞いてほしい。では、どのような状況であれば自分語りが許されるだろうか。少し考えてみよう。

まずはじめに、確実に許される状況を考える。たとえば、相手がいないところで自分一人によって消化する場合。ノートに日記を書くといった状況だ。これは100%許される。誰も被害を被ってないからだ。

でも果たしてこれで、自分語りの代替として満足いくだろうか。。少なくとも僕は満足できない。僕は誰かに話を聞いてくれって言ってるんだし、相手がいないことには、この欲求は満たされない。

そこで僕が良い塩梅なのではと思うのがTwitterだ。僕がTwitterで何をどれだけ呟こうと、見たくない人はブロックやミュートを受けて側がしてくれるし、仲の良い人からはいいねやリプライのようなリアクションが貰える。たとえリアクションが貰えずとも、誰かに見てもらえてるという感覚にはなるので、欲は満たせる。

また、今こうして僕がしているように、ブログにクソみたいな日記を書き連ねるのもまた、話したい欲をいい感じに発散できる。個人の書くブログなんて誰も見てないのだが、書く手間がかかる分だけ、自分の話や考えを誰かに伝えていると錯覚できる。やってることは、卓上のノートに日記を書くことと大差ないので、実際は一人で完結している。錯覚は偉大だ。

Twitterとブログ。それぞれ、見たくない人は見なくていいし、書き手は言いたいことを好き勝手に言うことができる。これらは許されるためのツールだと思っている。

しかし、たまに思うのだ。プライベート丸出しな内容を、僕と生活してきたわけでもない人の目に止まり得るこの状況は、本当に許されるのか、と。

オフラインで自分語りをする場合の相手は、少なくとも自分と面識のある友人などだった。それに比べて、インターネット上のツイートやブログは、見知らぬ誰かの目に留まり得る。見知った人相手でも許されなかったのに、どうせ誰の目にも止まらんだろうと安心しきって、自分勝手ながら錯覚に溺れるというのは、ちぃと配慮が足らんのではないか。

配慮というのは、うっかりこのブログや僕のtweetにたどり着いた人に対するもののことである。どこの馬の骨かもわからん野郎の日記なんて、許されないの頂点だ。

さて、配慮をするにはどうするが吉だろうか。Twitterは鍵垢にすべきか。ブログはリンクをどこにも貼らない方が良いだろうか。